私の祖母の場合ですが、十数年前のある暑い夏、お盆の最中に亡くなりました。
大正生まれで当時94歳。大往生でした。
地方の一人娘として生まれ、そのまま3件隣の許嫁(祖父)と結婚。
祖父は太平洋戦争で幼い子をふたり残して、20代後半で亡くなったので、苦労して生きてきたと聞きました。
高齢者によくあることで、祖母は80代後半には誤嚥性肺炎(高齢者に多い肺炎)を繰り返し、要介護5(最も重い介護度です)になりました。
祖母が80代後半だったとき、すでに主治医に、
「もう自分にできることはなにもない。」
そう言われてから、自宅で4年間生き続けました。
もちろん、家族にできることは限られていたので、
・ヘルパーさん
・看護師さん
・リハビリの先生
・主治医の先生
・福祉用具レンタル業者さん
・リフォーム業者さん
・ケアマネージャーさん
介護と医療のフルセットで、みなさまに大変お世話になりました。
考えようによっては大往生ですが、私的には複雑な気持ちが残りました。
すでに介護業界にいた私。
「自分がこの仕事をしているのに遠くに住んでいるなんて。自分を一番可愛がってくれた祖母の身近にいたい。認知症になったのなら、なおさら身近で一緒にいたい。」
と、娘を連れてこのとき自宅に戻ったのです。
また、仕事で勉強したことを駆使して、食事や水分摂取、排泄など工夫しました。
仕事があったので、介護の中心は父親で介護保険の事業所さんにほとんどを助けていただきました。
私の役割はそのほんの一部でしたが、介護全般について、良かったことなのか。
今も振り返ることがあります。
そして、実際に一番身近な家族の老いや死を通して、複雑な思いとは別に、その流れは自然であり、また多面的であり、ときにコミカルでもあると感じました。
例えば私の母は若い時、「良い嫁」を演じ続けてくたびれていました。
介護の後半は鬼嫁全開だったので、車椅子に座り認知症になった祖母が、母の後ろ姿を見ながらのんびりと、
「あの……怖いおばさんは誰や?」
と私に聞くので吹き出してしまったこともあります。
そして母が鬼の形相で振り返り、「なんやて〜!?」と戻ってきたのでまた慌てました。
認知症が進行し、妙に穏やかで朗らかだった祖母。
亡くなった年のお盆休み、リビングで介助を受けながらお昼ごはんをしっかり食べた祖母を、しばらくしてから車椅子からベッドに移動するために父と一緒に抱えた時、祖母の身体は、急にガックリと力を失ってしまいました。
すぐにいつもお世話になっている主治医の先生に連絡し、来てもらいましたが、どう考えても「その時」でした。
いつも冗談ばかり言う先生も、今回ばかりは神妙に丁寧に祖母を診てくれたあと、
「これは……。このまま見送ろうか……。」
と静かに声をかけてくれました。
私は祖母のベッドの脇で、静かに想像しました
お昼ごはんをしっかり食べたからお腹はいっぱいだな。
やっと戦死した祖父にあの世で会えるのかなと。
若くして遠い南の国で戦死した祖父は、たしか当時30歳くらい。
94歳になっている祖母を見て、妻だとわかるのかしら。
それとも、祖母はあの世で、祖父と別れたときの若かった姿に戻って会えるのかしら。
私は祖母の足元でしんみり想像していました。
いつも診てくれる主治医と一緒に、
「ああ〜。これまでありがとう。お疲れさま。」
とそんな気持ちで神妙に見守っている時でした。
急に何を思ったのか母が、
「先生!今まで本当にありがとうございました!」
とやけに元気にいうので、先生がしどろもどろに、
「いや……、奥さん、まだ(生きているし)ね……。」
と困ってしまうシーンでは、私は笑いをこらえられず、
「なんでやねん。(バシッ)」
と、関西人全開で、母にツッコミを入れていました。
人の死は、寂しいものですが、それだけではない。
生きていることも、老いて死んでいくことも、また自然なのだと妙に腑に落ちた瞬間でした。
その後のお葬式でも、母はよほど「良い嫁」を演じることに嫌気がさしていたのでしょう。
名古屋帯でキメた喪服姿の最前列であくびを連発し、何度も足を組もうとするので必死で止めていたのも、今となってはいい思い出です。
祖母は祖父と再会できているのでしょうか。いまも思いを馳せるときがあります。
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